会員各位
昨年11月に行われた関東例会の報告要旨をお送りいたします。
なお、今回から添付ファイルではなく、このメール本文に
直接載せることとなりましたのでご了承下さい。
松浦史明(東南アジア学会関東部例会委員)
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【第一報告】
日時:2009年11月21日 13:30~15:30
報告者:間瀬朋子氏(上智大学アジア文化研究所客員研究員)
コメンテーター:メタ・スカル・ブジ・アストゥティ氏(ハサヌディン大学教員、慶応大学大学院)
報告題:「ジャムー売りのふるさと-ソロ出かせぎ送り出し圏の生成と発展」
(報告要旨)
ジャムーは、ショウガ科植物など天然原料から作られる、ジャワ島で民間伝承されてきた健康増進ドリンクである。ジャワの伝統的な装いをして行商をする女性たちの姿と王宮の秘薬であるというイメージが重なり合って、太古の昔から存在する職業であるように思われがちであるが、行商のジャムー売りは今から70~80年前に特定地域の村びとたちの経済的必要から生まれた、比較的新しい出かせぎ商売である。
報告は、行商のジャムー売りに注目し、①特定の社会経済的状況を理由に、特定時期のジャワ島中部の特定地域においてこの業種が出かせぎ商売スキルとなる背景と、②この業種による出かせぎが発生する領域とその出かせぎ先の拡大・変容を追うものであった。ジャムー売りを生み出す領域(ジャムー売りのふるさと=ソロ出かせぎ送り出し圏)に注目するのは、ジャムー売りの配偶者の多くが別業種のモノ売りであったり、ジャムー売りの歴史を遡ると別業種のモノ売りに関連していたりするためである。このようにジャムー売りを取り巻くひとつのまとまりが「ジャムー売り集団」と称され、調査対象になっている。
報告者の聞き取り調査の結果では、「ジャムー売り集団」によるモノ売りとしての出かせぎがソロ出かせぎ送り出し圏の特定地域(中ジャワ州スコハルジョ県ングトゥル郡)において1910年代末にすでに発生していた。ングトゥル郡は、「ジャムー売り集団」の先駆地であり、出かせぎ送り出し圏の中心である。「ジャムー売り集団」にふくまれる、あるモノ売りの出かせぎ経緯をみると、その人自身が直接ングトゥル郡出身でなくても、その出かせぎ歴のどこかでングトゥル郡出身者とつながっていることは多い。
ではなぜングトゥル郡で出かせぎ慣行が発生したのか。①ブンガワン・ソロ(ジャワ最長の川)の水害を受けやすく、農業不適地であったこと、②ブンガワン・ソロの水上交通、幹線道路と鉄道の陸上交通の要衝であったこと、③王侯領の土地制度とヨーロッパ農園企業の不在により、周辺の村びとが農業で生計を立てられなかったこと、④長期にわたる零細商人としての経験があったことが、その複合的要因であると推測される。
また出かせぎ慣行の波及には次の2つのパターンがある。第1は、地縁・血縁による自然波及であり、第2にパトロン-クライアント関係をつうじての波及である。初期には婚姻関係や隣人関係をつうじての地縁・血縁による波及したが、1950年代以降になるとパトロン-クライアント関係をつうじての波及もみられるようになった。パトロン-クライアント関係をつうじての波及には2パターンあり、ひとつはスコハルジョ県ングトゥル郡での農業労働に誘われたあと、ングトゥル郡の外にモノ売りとしての出かせぎに出るパターン、もうひとつはングトゥル郡出身のパトロンに出かせぎモノ売りとして直接募集されるパターンであり、これらをつうじて出かせぎ者は増大した。パトロン-クライアント関係をつうじ ての場合、パトロンがクライアントになる人の出かせぎ商売の初期資本を準備し、のちに得るはずのクライアントの商売利益をもって初期資本+利子を分割返済してもらうシステム(ポンドック制度)が採られた。
「ジャムー売り集団」による出かせぎの歴史的変遷を追ってみると、1942年の日本軍政期前後にジャムー売りという商売が現れているものの、それが一般化するのは1948年から1950年代にかけてのことである。中ジャワ州内(ソロやスマラン)や東ジャワ州を目指していた出かせぎが、西ジャワ州を目指す出かせぎに拡大するようになるのも、1948年以降である。1950年代からすでに、スマトラ島やスラウェシ島など外ジャワへ、「ジャムー売り集団」の出かせぎが広がっていく。1960年代、政府の経済開発政策にともなう建設ラッシュが起こり、インドネシア全土からジャカルタ首都圏に建設現場労働者が集まったが、この人口流入が新たな需要を生み出すため、ソロ出かせぎ送り出し圏から首都圏へのモノ売りとして の出かせぎも増加した。1960年代のうちにソロ出かせぎ送り出し圏からの出かせぎモノ売りでインドネシアの大都市は飽和状態になり、1970年代には彼らは都市部ばかりでなく全国の小郡・小村にまで入り込むようになった。インドネシア通貨・経済危機(1997年)の以降、「フォーマル・セクター」で職を失った人が、「インフォーマル・セクター」のモノ売り分野に参入するようになり、その結果、商売競争が激化する。「ジャムー売り集団」のなかにも商売上の苦戦を強いられる人が現れ、モノ売りからバイクタクシー運転手などへ職種転換する人もいた。
「ジャムー売り集団」は、インドネシアの「インフォーマル・セクター」において一大モノ売り集団としての役割を果たしている。よって、彼らの出かせぎ経済活動をインドネシアの「インフォーマル・セクター」全体のなかに位置づけて理解することは、「インフォーマル・セクター」全体を理解することへの一助となる。
(コメンテーター:メタ氏)
メタ氏から、ジャムーそのものについて詳しい説明があった。また、彼女自身の経験に沿って考えると、ジャムーがインドネシア人(特にジャワ人)の日常生活に欠かせない要素であるがゆえ、当たり前の存在になったジャムーやジャムー売りにたいして、インドネシア人研究者の眼が向いてこなかったという。
会場からの質疑応答
(質問)本報告における分析概念として、「ジャムー売り集団」による出かせぎというときの出かせぎの定義を明確にする必要があるのではないか。
(回答)「ジャムー売り集団」の出かせぎ形態は、基本的に循環型移動(サーキュラー・マイグレーション)(ジャワ語でボロ; mboro)であり、つねに出かせぎ先と出身地とを往復する。移住を目して、出かせぎ先に居を構えることはほとんどしない。
(質問)1011人という多くの人にたいして出身地を尋ねているが、どこの調査地でどのような回答があったかを明示すれば、さらなる知見が得られるのではないか。出身地を尋ねる場合、本人の出生地なのか、それとも親の出生地なのかなどをはっきりと区別しているのか。
(回答)「ジャムー売り集団」の人びとに出生地を聞くと、男性の場合、配偶者の出身地を答えることが多い(ソロ出かせぎ送り出し圏には、妻方居住の習慣がある)。しかし、どこの村にいち早くモノ売りとしての出かせぎ慣行が生まれてきたか、だれの伝手で(両親の伝手なのか、義理の両親の伝手なのか、友人の伝手なのかなど)出かせぎを始めたかを明らかにする必要性から、本報告のもとになった調査では、聞き取り対象となった本人の生まれた出生地を逐一確認している。
つけ加えておくと、ソロ出かせぎ送り出し圏の出身者は、出かせぎをしていても、出かせぎ先で出会った同圏出身者と結婚するケースが多い。
(質問)「ジャムー売りの集団」の出かせぎスタイルの変遷(出かせぎ史)についてもまとめてあったが、これは聞き取り調査だけの結果をもとに述べたものか、それとも文献調査を踏まえているのか。
(回答)文献調査があまり進んでいないので、出かせぎ史について、どうしても聞き取りの内容をまとめて提示しただけの形になった。今後、オランダ時代のメモや新聞などと見比べながら、聞き取りで得た特定地方からのモノ売りとしての出かせぎ史にたいする分析を進めていかなくてはならないが、まだなにをどうすべきか皆目見当のつかない状況にある。歴史をご専門となさっているかたなどからご意見をいただければ幸いである。
(質問)メタ氏のコメントにあったように、ウォノギリ県のどこかにソロの王家からジャムーの薬草が与えられたという伝承があるが、それとスコハルジョ県ングトゥル郡がジャムー売りの発祥地ではないかという本報告の結論とのギャップをどうみればよいのか。
(回答)確かに、「ラデン・マス・サイド(マンクヌゴロ1世)に、ウォノギリ県出身の妻がいたため、王宮がウォノギリ県のある村にジャムーの薬草を与えた」という話が、高橋澄子の『ジャムゥ』(高橋澄子『ジャムゥ インドネシアの伝統的治療薬』平河出版社、1988年)に書かれている。しかし、ジャムーそのものの歴史と(報告者があつかう)行商ジャムー売りの歴史とを混同することはできない。すなわち、ジャムーの材料となる薬草(あるいはそれをもちいたジャムーのレシピ)を授けられたウォノギリのある村では、おそらく王宮から授かった薬草のことを外部に漏らさず秘密にしておいたようであるし、その村に薬草を授けられたこと自体がジャムー売りという出かせぎ業種の発生・普及に直接結 びついているわけではない。
(質問)行商でなく、商店で売られている瓶入りのドリンク剤系のジャムーやパッキングされた粉ジャムーと報告に出てくる行商のジャムー売りとは、どのような関係があるのか。
(回答)粉ジャムーを製造する会社はたくさんあるが、そのうちのたとえばジャムー・ジャゴ社(現在、本社は中ジャワ州スマランにある / アイル・マンチュル社は、ジャムー・ジャゴ社から分離・派生したゆえ、同じくウォノギリ県出身者による創業)は、ソロ出かせぎ送り出し圏に属するウォノギリ県出身者(華人系)による創業である。そのほかの大会社の多くは、必ずしもソロ出かせぎ送り出し圏出身者によって創業されたジャムー会社ではない。
(コメントと質問)1910~1920年代は、商業のあり方の変革期であって、モノの量、質、種類、地域的な広がりなどに大きな変化があった。モノ売りがこの時期に広まっていたのは頷ける。しかし、聞き取りだけでこれを跡付けるのは難しい。原住民の生活改善についてはオランダ側の史料があるはずである。ところで、昔からジャムーの原材料などの調達は全て自前でやっていたのか。それともアラブ人や華人との関わりがあったのか。
(回答)基本的に、ソロ出かせぎ送り出し圏出身者は、華人やアラブ人の力を借りずに、自前で原材料を調達し、商売をおこなってきたし、現在もそうである。昨今、ジャムー売りが持ち歩く工場メイドの粉ジャムーにしても、自前で調達している。ジャムー会社は、大商売販路として行商のジャムー売りを利用している。ジャムー会社は、全国に何千・何万と存在する行商のジャムー売りに、みずからの製品を売り歩いてほしいと思っている。したがって、全国に散らばるジャムー売りの出かせぎ先に製品を個別郵送したり、レバラン(断食明け大祭)時に故郷への帰省バスを準備したり、ジャムー売りに手厚いサービスをする。「ジャムー売り集団」に属する鶏そば売りと製麺業者・製粉会社との関係にも、同 じようなことが言える。「フォーマル・セクター」にとって、モノ売りなど「インフォーマル・セクター」の存在を見過ごすのは大きな損であり、ビジネスを拡大・安定させるために「インフォーマル・セクター」を繫ぎ止めておくことが、昨今の重要な課題になっている。
(質問)「ジャムー売り集団」の場合、たとえばベチャ(輪タク)引き組合のような形で、誰かがモノ売り集団全体を統括していることはないのか。また資本蓄積によって、彼らはどのような行動に出るのか。
(回答)「ジャムー売り集団」は、だれかによって集団として統括されているわけではない。彼らは個人単位で経済活動をするような、独立独歩の姿勢を好む人びとである。資本蓄積をしても、それを大きなビジネスに発展させていくことをあまりおこなわない。だれかと協業することにも、あまり積極的ではない。したがって、彼らのあいだに敷かれるパトロン-クライアント関係も、1年以上は続かないものであった。彼らのメンタリティが、どうもそのようになっている。
(質問)「ジャムー売り集団」は独立精神が強い人びとの集まりということなのに、特定業種を特定集団で独占しようとするのはなぜか。
(回答)彼らは、地縁・血縁、あるいはパトロン-クライアント関係を利用して、商売ノウハウを真似るから、結果的に特定業種による出かせぎ慣行が限定的地域のなかで共有され、特定業種を独占しているようにみえる。しかし、特定業種によってそれぞれがそれぞれの場所でそれぞれの出かせぎ経済活動をおこなっているわけであり、だれかがだれかに従属しているわけではない。ある場所において、まったく他地域の出身者が、「ジャムー売り集団」がおこなっている特定業種に参入するケースは、実際に存在する。
(質問)トランスミグラシ(政府によるジャワから外ジャワへの移民政策)などの影響を受けて、ソロ出かせぎ送り出し圏からのモノ売りとしての出かせぎ者が増えたという傾向はみられたか。
(回答)みられた。たとえば1950年代末から1960年代にかけて、多くのジャワ人が農園労働者として北スマトラ州に渡ったが、こうした人びとの需要を見越したジャムー売りなどとしての出かせぎモノ売りが北スマトラ州を目指す流れなどが存在した。
(質問)報告者がモデルにしている先行研究はあるか。
(回答)『ベチャ引き家族の物語』など、インドネシアを舞台とした庶民(wong kecil)にかんする研究調査には蓄積がある。なかでも、ジェリネック(Jellinek, L)やマレー(Murray, A)などのように、人びととの交流(参与観察)や人びとの語りからなにかを掬い上げていくような研究に関心を寄せてきた。
(記録者:東京大学大学院 松村智雄)
【第二報告】
日 時:2009年11月21日 15:45~17:45
報告者:山口元樹(慶應義塾大学大学院)
コメント:新井和広(慶應義塾大学商学部講師)
報告題:「蘭領東インドにおけるアラブ人協会「イルシャード」の教育活動―設立者の理念とその展開―」
1.発表記録
東南アジア島嶼部には少数ながらアラブ人が居住する。その大半はハドラミーと呼ばれる現在のイエメン共和国ハドラマウト地方からの移住者やその子孫で、20世紀前半のイスラーム改革主義運動で顕著な活躍を見せた。イルシャードは、スーダン出身のウラマー、アフマド・スールカティーが、東インドのアラブ人とともに1914年にバタヴィアで設立した社会宗教団体で、各地に支部を持ち近代的なイスラーム教育運動を展開し、ムハマディアと並び現在も活動を続ける老舗のイスラーム改革主義団体である。
イルシャードについては、これまで同協会と東南アジアのアラブ人社会内部の抗争との関連やその教育活動という面から研究され、1910年代末~1942年を「ハドラミーとしての自己認識」覚醒の時期とし、教育活動における同団体の役割を強調して描かれてきた。しかし従来の研究は、イルシャードの「イスラーム改革主義団体」の側面を無視し、設立者で指導者であるスーダン人のスールカティの存在を位置づけられないこと、当該時代における教育活動の変化を捉えておらず同協会の教育がハドラミーとしての自己認識の形成を促進したことが実証できていないといった問題点を抱える。このことから本報告では、イルシャードの本部と本校が置かれたバタヴィアと最大の支部であるスラバヤの学校を対象としてスールカティの存在に着目することにより「イスラーム改革主義団体」としての側面を考察し、同氏の教育理念と1930年代末までの同協会の教育活動の展開を分析することを目的としている。そして検討においては、アラビア語・マレー語(インドネシア語)の定期刊行物やイルシャードの雑誌、スールカティの著作、イルシャードのメンバーや学校の卒業生による著作と史料として利用する。
19世紀末から20世紀初頭の東インドでは、公教育とイスラーム教育は別々に行われ、後者においては20世紀に入ると伝統的なイスラーム学校(プサントレン)だけでなく、近代的な制度を取り入れたイスラーム学校(マドラサ)が設立されていた。一方、大多数が都市部に居住し商業に従事する現地アラブ人社会では、移住者が基本的に男性のみで現地女性と結婚して第二世代はほぼ混血することを背景に、家庭内では現地語が使われ、その多くが公立および私立の教育機関は利用せずに家庭内で教育を行っていた。このような彼らは、商業に必要な能力を備え現地語の識字率が高い一方、世代を経るごとにアラビア語の能力は次第に失われていく。このため一部の者は、子弟を現地のアラブ人私塾に通わせたり、ハドラマウトに送っていた。19世紀末以降、アラブ人を中心に一部のムスリムはオスマン政府による奨学制度によりイスタンブルで近代的な教育を受ける機会を得る。このようななか、アラブ人は、1901年頃にバタヴィアで、東インドにおける近代的なイスラーム団体のさきがけとなるジャムイーヤト・ハイル(慈善協会)を設立し、マドラサを運営し始める。この団体は、会員と学校の生徒の大半がアラブ人であったが、少数の現地ムスリムも参加していた。
スールカティーは、このマドラサの教師として1911年東インドにやってきた。しかし、彼は同協会の指導部と対立して1914年に学校を辞め「導きのためのイスラーム学校(イルシャードの学校)」を設立し、彼の支持者達が協会としてのイルシャードを設立する。同協会は、本部の運営はハドラミーが独占する一方、教師にはスールカティーはじめハドラミー以外のアラブ人が多く存在した、またイルシャードは、会員資格や学校の入学資格において全てのムスリムに開かれ、アラブ人のいない都市にも支部が設立されていく。各支部と各学校はかなり自律的に活動を行い、学校については、その大半が初等教育に相当するものを提供し、寄宿制を基本として男女別学、校内でのアラビア語使用の徹底がなされていた。
スールカティは、スーダンで伝統的な教育を受けた後、マディーナとマッカで10年以上学び、この時期にイスラーム改革主義の思想に触れたと言われる。その後、彼は、近代的なイスラーム教育を行うマッカのファラーフ学校とジャムイーヤト・ハイルの学校で教職を体験した。スールカティは、アラブ人に限らない「ムスリム間の平等」を強調し、非アラブ人である現地ムスリムへの教育にも関心を持ち、アラビア語だけでなくオランダ語やマレー語の出版活動も行う。そして1910年代にイルシャードの支部と学校が増加するなか、スールカティは、1919年にイルシャードの学校における教育制度改善・統一のための改革案を協会に提出する。この改革案は、資金面等の問題から協会の承認を得られなかったが、施設等の拡充や制度・組織強化に加え、非アラブ人やアラビア語能力の低いアラブ人学生に適した教科書の作成や学校カリキュラムを政府の初等教育のものに対応させるといった現地社会への対応を意図する内容となっていた。その後、彼は、1924年著の『カリフ制』の中でイスラーム世界各地から学生を集めカリフの候補者とカリフの代わりを務めるムフティー(法規定に関する見解を出す)やカーディー(法官)を育成する大学の構想を示す。大学については、彼以前にラシード・リダーによって既に構想が出されていたが、彼のものは、「新しい学問(=近代的学問)」「宣教のために不可欠な言語(=各地域の言葉)」を教授内容に含み、マッカにカリフ位と大学を置き、全てのムスリムにカリフの資格があるとする、東インドなどイスラーム世界の「周縁地域」からの視点を持ちムスリム間の平等を強調するものであった。
一方、イルシャードでは、1924年に学校が年少者と年長者の2コース制となって世俗科目が拡充され、1929~31年頃には教授内容がHIS(オランダ語原住民学校)に合わせたものとなる。また1926年、東インド・イスラーム会議においてスラバヤ支部がマッカ近郊のターイフに大学を設立することを提案する。しかし当時既に同協会の卒業生はイスラーム世界における近代教育の中心地であるエジプトのカイロを主な留学先としており、カリフ制再興と大学の計画は頓挫。イルシャードは、スールカティーがこれを望む学生に推薦状を書き留学させる形でイスラーム世界の教育制度へつながることになった。1930年代に入ると、1931年にスラバヤでアラブ人(ハドラミー)留学生団をカイロに送るための委員会の設立やソロにおける政府の監督・援助の下でのアワド・シャフバルによる最初のHAS(オランダ語アラブ人学校)設立といった動きが見られたことを背景に、バタヴィア校では、1938年、政府のカリキュラムに従いつつアラビア語とイスラーム教育を追加した教育を行うことが提案される。この提案では、アラビア語をはじめイスラーム教育をイルシャードの学校や東インドにおけるアラブ人全般の存在意義と強調し、中等学校開設のため現地ムスリム協会との協力する可能性を示唆し、イルシャードの学校が全てのムスリムに開かれていることを宣伝するといった、現地社会への適応が主張されていた。またスラバヤ校では、1936年にエジプトの初等教育の内容を意識したカリキュラムを採用し、イスラーム教育が中心となった。
以上のことから、本報告は次のような結論となる。スールカティーは、中東を中心としたイスラーム世界における統一的な教育制度を構想する一方で、教育内容は東インド社会にも適応させるという教育理念を持っていた。この背景には、彼が中東のイスラーム改革主義の影響を東インドに持ち込む一方「ムスリムの間の平等」という要素を強調し、アラブ人以外の現地ムスリムに対する教育にも関心を持っていたことがある。イルシャードの教育活動の展開については、イスラーム世界と東インド社会への適応という2つの方向性が反映され、アラビア語やイスラーム宗教諸学といったイスラーム教育を重視しつつ現地社会にあった「新しい学問」と「諸言語」(オランダ語やマレー語)を追加するカリキュラムを行い、卒業生を中東に留学させる一方で、HASを設置するといった東インドの教育制度に接続させることも試みていた。その後1930年代後半になると、バタヴィア校では東インドの教育制度を重視してイスラーム教育の比率を縮小したのに対し、スラバヤ校ではイスラーム教育を重視し部分的に現地社会に対応するというように、両校で2つの方向性のどちらに重点を置くかに違いが現れるようになった。これらのことから、イルシャードの教育活動は、ハドラミーとしての自己認識の形成という観点からよりも、スールカティーの理念となる中東のイスラーム改革主義の影響が東インド社会の中であり方を模索したものとして説明できるのである。
2.コメント・質問
・当時のイルシャード出現における問題とハドラミーはじめ現地アラブ人の自己認識にかんする問題とは表裏一体であり、アラブ人の間ではイルシャード寄りの者とそうでない者が存在していた。
・東南アジアのアラブ人研究では、研究対象となる集団を選択する段階で、ハドラミーの観点から論ずるか、東南アジアにおけるイスラーム改革主義の観点から論ずるかが決められてしまう面がある。
・ハドラミー研究を行う場合には、血縁関係やアイデンティティの点で現地ではなくハドラマウトと関係を維持しているサイード(預言者ムハンマドの血を引く人々)から見たほうが好ましい。
・所属する者の殆どがサイードではなくハドラマウトへの学校進出が失敗したことを背景にハドラマウトとの関係が殆ど見られないイルシャードの研究は、ハドラミー研究ではなく、改革主義がいかに現地に根付いたのかということらやアラブとしていかにこれを実現していこうとしたのかといった、東南アジアにおけるイスラーム改革主義運動として捉えるべきである。
・これまで、イルシャードの教育活動の研究では、ハドラマウト的なものがあるとの思い込みのもと、研究が行われてきた。しかし、イルシャードの教育内容にはハドラミーとしての自己認識形成がないのは事実である。本報告はこの点で非常に意義を持つものである。
・一方で、イルシャード研究がハドラミー研究なのかイスラーム改革主義運動研究なのかという問題設定は、東南アジア研究において関心を引くものになり得るかという点で疑問が残る。
・イルシャードの教育活動が、ジャワをはじめとする東インドの非アラブ人が行っていたイスラーム教育に対していかに影響を与えたのかについて、明らかにする必要がある。
・スールカティはスーダン人であるが、スーダン人としてのアイデンティティは何か。
・平等主義のところで、アラブ人に限らない「ムスリム間の平等」を強調したとあるが、アラブ人のなかで「ムスリムの平等」が問題となったことはあるのか。
・大学構想でのスールカティーとラシード・リダーの教授内容には、あまり違いはないのではないか。
・1929年~1931年の間イルシャードの本校がジャワ東部のラワンに移った理由は何か。
・スールカティがマッカに眼を向けたのは彼の経歴での存在が非常に大きかったためで、卒業生がマッカではなくイスラーム改革主義の中心であったカイロに留学するのは当然であったのではないか。
回答
・非アラブ人ムスリムとの関係については、ムハマディアなどとの協力関係について明らかにできればいいと考えてはいるが、史料的に難しい。現在のところ、東インドの教育制度にイルシャードの人間がどれだけ関わっていたのかを明らかにすることが最も可能性がある。
・スールカティは、友人のスーダン人に誘われてファラーフ学校の教師となった点や、彼の友人であるスーダン人をイルシャードの教師として多く招いていた点を考慮すると、スーダン人としてのアイデンティティをある程度持っていたとみられる。しかし、彼の自己認識で最上位にあったのはムスリムであると考えられる。
・「ムスリム間の平等」については、イルシャード内部でハドラミーを強調する者とアラウィーとの対立が展開される状況で、アラウィーがハドラミーの批判をするときに問題となっていたことがある。
・大学構想の教授内容におけるスールカティーとラシード・リダーの違いについては、スールカティーが宣教のために不可欠な諸言語、アラビア語以外の言語に注目したところが重要であると考える。
・留学先については、伝統的にはマッカに行くのが一般的であったが、1920年代頃からカイロへ向かうことが多くなっていた。スールカティが卒業生のマッカ留学を指向した背景には、自身がマッカで勉強したことに加えて、マッカが中心でそこにカリフ、大学などが揃っているべきだとの理想を彼が持っていたことがある。
・本校のラワン移転ついては、イルシャードの広告では「環境が良い」と記すのみであるが、当時学校と協会との関係が上手くいかず、学校が協会と距離をおきたかったことが背景にあると考える。
3.質疑応答
コメント
・イルシャードなどアラブ人研究でも、彼らの東南アジアにおける位置づけを明確にすれば東南アジア研究においても十分関心を引くものになる。
・スールカティ肌の色等を考慮したうえで、当時人種社会であった東インドの文脈で史料を読むと違った読み方ができる。もしくは、当時は違った読み方をされたと考えることができるのではないか。
質問
・イスラーム改革主義は非常に幅広い概念であるが、イルシャードの改革主義とは何であるのか。例えばインドネシアではムハマディアと同じと考えていいのか。スールカティーがマッカに滞在した時、誰に師事したのかなどを検討すればムハマディアとの違いが明らかになってくるのではないか。
・スールカティの支持者はどのような人で、何故彼を支持していたのか。
・イルシャードの設立者であるスールカティは、協会の運営に関わっていたのか。
・華人系ムスリムはイルシャードにいたのか。
回答
・スールカティーのイスラーム改革主義は、モダニズムに近い考え方であるとみられ、特に教育については近代的な科学を積極的に導入する動きが見られる。但し、その他についてはこれから検討していく必要がある。
・スールカティの支持者については、アラウィー以外のハドラマウト出身のアラブ人が多数を占める。支持者の中には、従来の研究で言われてきたハドラミーコミュニティー内での主導権争いに端を発した階層間の争いによって彼を支持した者の他に、純粋にスールカティの理念に賛同する者がいる。そしてその中には、少数ながら現地ムスリムも存在していた。
・スールカティーは、協会には最後まで全く関わらず、協会の議長と対立することもあった。
・イルシャードに参加していた華人系ムスリムも存在してはいたようであるが、その数や学校で勉強だけしていたのか協会にも参加していたのかについては今のところ分からない。
質問
・イルシャードが、テガル、プカロンガン、チレボン、ブミアユと各地に支部を作っていたことと、ハドラミーやアラブ人の動きとは関係があるのか。
回答
・イルシャードの支部は、本部の意向ではなく各地のハドラミーやアラブ人、賛同者、有識者によって独自に創設されていた。ブミアユ支部については、あまり強力ではなかったとみられ、1931年の地震で崩壊した後は、現地からアラブ人がいなくなり再建されることはなかった。
質問
・当該時期にできたアラブ系の学校はイルシャード系列の学校のみであったのか。アラウィーによって設立された学校はあったのか。
・アラブ系の各学校は、それぞれ政府とどのような関係にあったのか。
・1900年頃から中華会館が急激に広がったことに対してオランダが懐柔策として作られた華人学校と比較することで、アラブ人学校の展開において見えてくるものがあるのではないか。
回答
・ジャムイーヤト・ハイルの学校がアラウィー系が主に占める学校であった。この他にアワド・シャフバルが持っていた団体も学校を運営していた。
・(コメンテーター)アラウィー連盟は、組織として学校を運営していなかった。当時のアラブ人は、個人でプサントレンを経営していたり自宅で教えるという形で現地ムスリムに教育を施すことをよく行っていた。組織として学校を運営していた団体の一つには当時スラバヤの慈善協会もある。
・先行研究では、アラブ人の学校は政府の支援を全く受けずに独自に運営されていたとする。だが、アワド・シャフバルがつくったHASは、政府の支援を受けていた。このほかに、1940年代までに政府の支援を受けていたアラブ人学校が1校存在している。イルシャードについては、支援は受けなかったものの比較的政府と良好な関係にあったといえる。
・オランダ語アラブ人学校が上手くいかなかった背景を考えるうえで、華人学校の展開と比較して検討を行う必要があると考えている。
質問
・HASは最終的には何校設立されたのか。
・イルシャードの学校はHASとして認められたのか。
・オランダ語教育を受けることを望むアラブ人は、専らHISに行ってたのか。
回答
・公立で設立されたのは2校。加えてイルシャードのような私立のものが何校か設立されている。
・イルシャードの学校で私立のHASとなったものがあるとされるが、実際にHASとしての教育を行っていたかについては疑問がある。HASを指向して設立しても継続できずに閉鎖された学校もある。
・オランダ語教育を望むアラブ人では、HISに行くケースとヨーロッパ人学校に行くケースがあった。
質問
・現在イルシャードはどうなっているのか。イスラーム改革主義の理念は生きているのか。
回答
・イルシャードは現在も活動しているが、学校はスコラとなったものとプサントレンのみで、マドラサは1校ない。また、スコラとなった学校のイスラーム教育は、課外授業でイスラームとアラビア語が少し行われるだけである。
質問
・1919年の学校改革案で「算術、工学の基礎、地理学、ローマ字の書き方といった政府の初等学校のプログラムに含まれるすべてが、我々のもとで用いられる。その中で我々に足りないのは3つだけである。それは、絵画と2つの言語の能力、つまりオランダ語とマレー語である。…(略)…」とあるが、算術、工学の基礎、地理学、ローマ字の書き方の授業は改革案が出された時点で既に行われていたのか。また絵画の授業はその後行われたのか。
回答
・算術、工学の基礎、地理学、ローマ字の書き方については、スールカティは全てやっていたとするが、実際はかなり疑わしいと思われる。絵画の授業が行われたかについては、その後の改革案の文書に絵画の授業についての記述が出てきておらず、現在のところは分からない。
質問
・イルシャードの協会の会員資格・入学資格は全てのムスリムに開かれるとあるが、当時協会に入れたのは既婚男性のみであったことを考えると、矛盾するのではないか。
回答
・当初は既婚男性のみで構成されていたが後に女性部ができる。但し、表現については再考する。
記録者:久礼克季(立教大学大学院)