▼ 2010/07/24(土) 関西地区7月例会(7月24日)
会員各位
7月の関西例会のご案内です。
日 時 2010年7月24日(土)13:30~17:30
会 場 京都大学稲盛記念会 館3階 小会議室
アクセス:
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html
建物 位置:
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm
報告1 藤田英里氏(広島大学)
「ランプン・マルガ 制研究事始め」
コメンテーター:水野広祐氏(京都大学)
報告2 ニパーポーン・ラチャタパタナクン氏 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
「1890年代から1920年代におけるバンコク市内の衛生問題-政府と庶民の「公衆衛生」理念再考-」
コメンテーター:河森正人氏(大阪大学)
【発表要旨 Abstracts】
1 藤田英里氏
スマトラ島南端ランプン地方は、オラン ダ植民地統治期から戦後に至るまで、ジャワ人の移住先として最も重要な地位を占 め続けてきた。私はこの地方の移住政策について研究する中で、ランプンにおけるマルガ(marga, merga)制 の果たした役割が非常に大きいことに気づい た。
マルガとは、系図に基づき、領域のはっ きりした村落群からなる、ランプンにおける最上位の原住民社会組織のことであ る。その成立は古く、移住の指導者及びその子孫を始祖として氏族組織が形成され、同一組織に属する住民による共同体マルガもしくは下部組 織ティウー(tioeh)が村落共同体マルガとなり、その首長で あったプニンバン(penjimbang)がマルガ首長になったと言われている。し かしこれらの首長の地位は、本来は同等の者の中の第一人者であり、氏族首長を超 えるものではなかった。このため彼らは、バンテン王国のスルタンによる、コショウ供出の見返りとしての称号(ピアグムpiagem)下賜制度により権威の拡大を図ったが、結 局自分の村落の枠を超えた地方有力者とはなれず、バンテン王国が衰退するにつれ てバックボーンを失い、その地位が低下した。
加えてランプンがオランダ植民地支配下 に入った1857年以降、マルガ制はオラン ダ植民地政府による強い介入を受けた。20世紀初頭の報告書によれば、既にマルガ首長の 存在自体が消えてしまった地域も多く、その下部組織である各カンポン(kampong)は自立して存在していた。 カンポン首長は村民によって直接選ばれ、その選択は地方行政長官(Hoofd van gewestelijk bestuur)によって承認された。本来 はプニンバン・ティウーのみがそのような者として選ばれていたが、徐々に変更され、20世紀には彼らは行政と人々の間の仲介者と してのみ尊重されていた。
しかし20世紀前半にジャワを中心に地方分権化政策 が進められる中で、マルガ制を再評価し、村落行政に活用しようとする動きが出て きた。ジャワで1906年に原住民自治体条例(Inlandsche Gemeente Ordonnantie)が施行されたのと同様に、1922年にランプン諸郡のための原住民自治体条 令が成立し、各マルガの領域及びその首長であるパシラー(pasirah)の権限等が定められ、主要なマルガに自治 体評議会(gemeenteraden)が設立された。しかしジャワ型のデサを外 領に移出しようとしたこうした一連の動きは、ランプンの慣習に合致するものでは なく、後に住民からの大きな反発を招く原因にもなった。
将来的にはジャワのデサと比較検討する ことも視野に入れつつ、こうしたマルガ制を含めたランプンにおける村落共同体の 変遷過程と行政の介入について整理したいと考えているが、今回はその第一歩として、ライデンの慣習法学者であったJ.W.van Royenの 研究について紹 介し、その問題点を明らかにしたい。
2 ニパーポーン・ラチャタパタナク ン氏
本発表は,19世紀末期から20世紀半ばにおける,バンコク市内を対象とした中央政府および首都省による 衛生問題に関わる行政・政策の展開過程と,庶民自身による諸活動を検討する.また,公共事業としての衛生政策をめぐり,政府と市民の抱いてい た理念の相違について考察する.
19世紀後半, 急激に大量の移民がバンコクに流入したため,ゴミ,下水など衛生に関する諸問題が深刻化した.悪化した衛生状 態を改善し,当時流行していたペストなどの伝染病を防ぐという名目のもとに,1897年 に衛生局が設立されたといわれる.だが,この設立過程に関する首都省の史料によれば,衛生局設立の目的は,1890年代後半に流行していたペストや家 畜伝染病(コレラ)の防止にむけた衛生状態の改善にとどまらず,中央政府におけるバンコク市内の道路開削の方針と,バンコク市予算の管理 をめぐる論争とも,深く関わっていたと思われる.
1897年の設 立以降,衛生局は王宮や王家と公務員などの屋敷が存在しているバンコク市中心部に限り衛生管理政策を実施した.他方,中心部より人口が多く衛生状態が深 刻であったバンコク市南部の地域(含 中国人街)は 管轄区域から除外され,予算不足を理由に,市南部における衛生設備の整備は困難であると主張され た.加えて,チュラーロンコーン王と外国人顧問は,中国人労働者の衛生観念のなさ が南側の衛生問題の一因であるとした.しかし,そのように南部地域に関しては予算不足を理由に管轄から除外しておきながら,1902年にこれまで衛生局の管轄区域に含められていなかった中心部の北側に新たな宮殿が 建築されると,この王宮周辺地域は衛生局の管轄に含められ、衛生管理の対象とされている.こうした中,衛生に関する訴状が庶民から提出された。 その多くは,バンコク市南部地域に関するものであり,南側の住民自身によって書かれ,衛生管理地域の南側への拡大を要求してい た.
当初予算不足と庶民の衛生観念の欠如を理由 に,市南部への衛生局管轄地域拡大を渋っていた政府も,深刻化する衛生問題と次第に強まる人々の要求に対応せざるを得なくなり,1916年と1923年に、衛生管理地域を段階 的に拡大し,その結果、非常に深刻な衛生問題を抱えたバンコク市南部の地域も含まれることになった.他方、特に1920年代に入ると,新たに発刊される新聞や雑誌などのマス・ メディアの数が急増し,野 生の豚が多くて不衛生であるとする意見,「プラナコーン県・バンコク市内」と「トンブリー県・川の西側」の衛生環境が不平等であるとする 意見など,政府の衛生管理を批判する記事が多く掲載されるようになっていった.
バンコク市中心部の衛生設備が整備される過程 において,為政者の間に,近代的政府としての「国民」に対する責任の理念が形成される以前に,王室の「私的」権利の理念が形成されること になった様子がみてとれる.また,衛生に関する事業など,国民の公益のために政府が公共事業を行うことは少なかったといえる.一方,庶民 の間には,1920年代に入ると国民の公益という理念が登場し,国民としての国へ の要求が多くなったといえるのではないだろうか.
19世紀後半, 急激に大量の移民がバンコクに流入したため,ゴミ,下水など衛生に関する諸問題が深刻化した.悪化した衛生状 態を改善し,当時流行していたペストなどの伝染病を防ぐという名目のもとに,1897年 に衛生局が設立されたといわれる.だが,この設立過程に関する首都省の史料によれば,衛生局設立の目的は,1890年代後半に流行していたペストや家 畜伝染病(コレラ)の防止にむけた衛生状態の改善にとどまらず,中央政府におけるバンコク市内の道路開削の方針と,バンコク市予算の管理 をめぐる論争とも,深く関わっていたと思われる.
1897年の設 立以降,衛生局は王宮や王家と公務員などの屋敷が存在しているバンコク市中心部に限り衛生管理政策を実施した.他方,中心部より人口が多く衛生状態が深 刻であったバンコク市南部の地域(含 中国人街)は 管轄区域から除外され,予算不足を理由に,市南部における衛生設備の整備は困難であると主張され た.加えて,チュラーロンコーン王と外国人顧問は,中国人労働者の衛生観念のなさ が南側の衛生問題の一因であるとした.しかし,予算不足を理由に挙げて南部地域を管轄から除外しながら,1902年 にこれまで衛生局の管轄区域に含められていなかった中心部の北側に新たな宮殿を 建築されると,この王宮周辺地域は衛生局の管轄に含められ、衛生管理の対象とされている.こうした中,衛生に関する訴状が庶民から提出された。 その多くは,バンコク市南部地域に関するものであり,南側の住民自身によって書かれ,衛生管理地域の南側への拡大を要求してい た.
当初予算不足と庶民の衛生観念の欠如を理由 に,市南部への衛生局管轄地域拡大を渋っていた政府も,深刻化する衛生問題と次第に強まる人々の要求に対応せざるを得なくなり,1916年と1923年に、衛生管理地域を段階 的に拡大し,その結果、非常に深刻な衛生問題を抱えたバンコク市南部の地域も含まれることになった.他方、特に1920年代に入ると,新たに発刊される新聞や雑誌などのマス・ メディアの数が急増し,野 生の豚が多くて不衛生であるとする意見,「プラナコーン県・バンコク市内」と「トンブリー県・川の西側」の衛生環境が不平等であるとする 意見など,政府の衛生管理を批判する記事が多く掲載されるようになっていった.
バンコク市中心部の衛生設備が整備される過程 において,為政者の間に,近代的政府としての「国民」に対する責任の理念が形成される以前に,王室の「私的」権利の理念が形成されること になったようすがみてとれる.また,衛生に関する事業など,国民の公益ために政府が公共事業を行うことは少なかったといえる.一方,庶民 の間には,1920年代に入ると国民の公益という理念が登場し,国民としての国へ の要求が多くなったといえるのではないだろうか.
世話人・連絡先
片岡樹 kataoka(at)asafas.kyoto-u.ac.jp
蓮田隆志 hsd(at)cseas.kyoto-u.ac.jp
速水洋子 yhayami(at)cseas.kyoto-u.ac.jp
渡辺一生 isseiw(at)cseas.kyoto-u.ac.jp